Category Archives: 偉人伝・名言

ボブ・ディランは言いました。

 

Bob DylanBob Dylan / Stoned59

 

これだけは、覚えておきなさい。

何もかも失ったと思える瞬間でさえ、

あなたの未来だけはまだ残っているということを。

ボブ・ディラン

芥川也寸志先生

 

今日は日本を代表する作曲家の一人である芥川也寸志先生の87回目の誕生日です。芥川先生と言えば、N響アワーのパーソナリティ(1984年~1988年)として親しみを持たれている方も多いかも知れません。

プロフィール

クラシカ・ジャパンより引用

芥川也寸志(作曲家)1925-1989
1925年、文豪芥川龍之介の息子として生まれる。作曲を志し東京音楽学校(現:東京藝術大学)を卒業後、作曲家として本格的に活動を開始。正統派作品から映画、CM、校歌までその分野は多岐にわたる。 70年代から黒柳徹子と司会を務めた「音楽の広場」や80年より始まった「N響アワー」などテレビでも活躍。ダンディな容貌とソフトで快濶な語り口に男女問わずお茶の間の人気者となった。またアマチュアの育成や後進指導にも熱心で戦後日本の音楽界へ大きく貢献した。
黛敏郎、團伊玖磨らと並んで戦後日本を代表する作曲家である。
主な作品:「交響三章」「交響管弦楽のための音楽」
歌劇「暗い鏡(ヒロシマのオルフェ)」
合唱曲「うたの旅Ⅰ~Ⅲ」
映画「八甲田山」「砂の器」「八つ墓村」
テレビ「赤穂浪士」ほか多数

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ


[オーケストラ・ニッポニカ(指揮:本名徹次)]

芥川先生は「音楽はみんなのもの」という精神のもと、アマチュアの指導にも大変熱心に取り組まれました。中でも1956年に発足した新交響楽団とは、大変意欲的な活動を続けられました。
その新交響楽団で芥川先生の薫陶を受けたメンバーが中心になって、2002年に生まれたのが「芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ」です。

オーケストラ・ニッポニカは芥川先生が也寸志が提唱していた「日本人の作曲した交響作品を蘇らせる」ことを活動の主軸にしています。私は初代監督を務められた本名徹治氏のアシスタントとして、このオーケストラと数年に渡ってご縁をいただきました。そして恥ずかしながらその中で初めて日本人作曲家の作品の素晴らしさを知りました。

日本人の作品は過去も現在も必ずしも恵まれた環境にあるわけではありません。特にニッポニカが中心的に取り上げてきた昭和の初期から第2次世界大戦までの時代は、激動の社会の中で作曲家達はまさに命がけで作品を生み出しました。しかし、残念ながらその多くはいまだに埋もれたままになっています。

ですから、ニッポニカがそうした邦人作品に光を当て「蘇演」することは本当に意義深いことですし、音楽を演奏する者として自国の作曲家の作品を愛することは至極当然のことだと思います。

芥川也寸志先生の名言

「静寂は人の心に安らぎを与え、美しさを感じさせる。音楽はまずこの静寂を美しいと認める所から出発する…作曲家は自分の書いた旋律が気に入らない時、直ちにそれを消し去ってしまう。書いた音を消し去るのは、再び静寂に戻ることであり、静寂の方が美しいことを自ら認めているからである」

音楽は静寂を美しいと認める所から始まる。そして、静寂より美しい音楽が残る…
深い言葉です。

[今日の動画]
Valery Gergiev / NHKso / Yasushi Akutagawa – “Triptyque” for string orchestra

芥川也寸志 – 弦楽のための三楽章 トリプティーク (1953)

指揮 – ヴァレリー・ゲルギエフ

NHK交響楽団

録音:2009年



永野数学塾-東大卒講師の個別指導-神奈川県大和市中央林間

 

上杉達也・和也

 
タッチ (1) (小学館文庫)

今日は上杉達也・和也の誕生日\(^o^)/
私(1974年生まれ)と同年代で上杉達也・和也を知らない人はいないと思いますが、2人はあだち充先生の野球&ラブコメ漫画の金字塔「タッチ」の主人公。

学生時代、私はあまり漫画を読まない方だったと思いますが、それでも「タッチ」には思いっきりはまりました。今まで何度読み返したか分かりません。数年前に、持っていた漫画を全部処分してしまった時もタッチだけは電子書籍化して残し、いつでも読めるようになっています(∩_∩)

完璧な青春漫画!

「タッチ」は10代の男の子の気持を完璧に描き切っていると私は思います。

ちょっと斜に構えて物事を見てしまうところだったり、でも内面はとても熱いところだったり、女の子のことだったり、友情だったり、部活だったり、家族との関係だったり…高校生男子ならきっと誰もが共感できて、そして憧れてしまう世界がそこにはあります。小説や映画も含めて、私は今まで、タッチほど見事に青春を切り取った作品に出会ったことがありません。

朝倉南

タッチ 背番号のないエース [DVD]

可愛くて、スポーツ万能で、勉強もできる朝倉南は、ヒロインにふさわしく実に素敵な女の子として描かれているわけですが、個人的にはやはり何よりもその優しさがたまらなかったです(^_-)-☆優等生の和也と「ベストカップル」と言われながらも、ずっとダメ人間の達也の方に想いを寄せ、達也を気遣い続けていた所も好感度大でした。和也が野球の試合で大活躍した同じ日に、ボクシングの試合で負けてふて寝している達也の部屋を訪ね、優しくキスするシーン(おそらくファーストキス)も好きです♪そして、やがてはその想いで達也を一人前以上の男に成長させてしまう…まさに理想の女性です(笑)

上杉達也の名言

優等生だった和也に比べて、ダメ人間だった達也は、和也亡き後、南の想いを受けながら男として成長していきます。そんな彼が高校生最後の予選で放ったこのセリフは名言です。

「敬遠は一度覚えるとクセになりそうで。」

今日の動画


藤山寛美さん

 

今日は喜劇俳優、藤山寛美さんの83回目の誕生日。

藤山寛美と言えば、戦後昭和の上方喜劇界を代表する喜劇役者。

松竹新喜劇の看板俳優として、抜群の技巧、色気、「大阪俄」の芸脈を受けついだ本格的な上方喜劇の演技で観客を魅了し、20年間に渡り1日も休まず舞台に立ち続けました。

舞台を降りると、「遊ばん芸人は花が無うなる」という母親の一家言を守り(寛美の父は俳優、母はお茶屋の女将)、夜の街を金に糸目をつけず豪遊しました。また知人に騙されて巨額の負債を抱えていましたが「アホをやっておりますが、わてのアホはどうやら本物らしゅうおます」と道化て、恨み言一言わず完済し、大物ぶりを示しました。

共演した「日本の喜劇王」の榎本健一からは「ちゃんと一本の筋を持っている。東京の若い者とは違う。流石だよ。」親友だった渥美清からは「藤山寛美は丈夫だねぇ。俺だったらとっくに死んでるよ。」などと言われていたそうです。

1990年に60歳の若さで亡くなった時、上岡龍太郎は「大阪の文化が滅びる」と嘆き、立川談志は「通天閣が無くなったようだ」と偲びました。ダウンタウンの松本人志も著書の中で「この人は素で面白い人なのではなく、面白い人を演じることの天才なのだ」と書いています。

藤山寛美の名言

そんな藤山寛美さんの次の言葉は重く響きます。

「芸は水に文字を書くようなもの、書き続けないと見えない。」

私には自慢があります。

それはヘルベルト・フォン・カラヤン(1989年没)、藤山寛美(1990年没)、6代目中村歌右衛門(1996年引退)の3人の実演に接していることです。私は1974年生まれですが、同年代でこの3人の実演を知っている人はそんなに多くないだろうと思います。

ヘルベルト・フォン・カラヤン

サントリーホール。開演約10分前からロビーに人の姿はなく、観客全員がホール内に着席し水を打ったように静かになった場内で、カラヤンの登場を固唾を飲んで待っていました。きっと観客の誰もが「カラヤンの来日は今回が最後」だと感じていたのでしょう。客席であんな緊張感を味わったことは後にも先にもありません。やがてオーケストラが入場し、チューニングの後、いよいよカラヤンが登場。万雷の拍手に迎えられながらも、晩年足が不自由だったカラヤンは足を引きずるようにして指揮台に向かいます。「大丈夫かな…」そう思ったのはきっと私だけではなかったでしょう。

前半の曲はベートーヴェンの交響曲4番。静かで美しい序奏の後、オーケストラが初めてフォルテを出す(強奏する)所で、その瞬間は訪れました。それまで美しくもどこか弱々しい感じで指揮をしていたカラヤンが突然、鷲が羽ばたくように両手を大きく広げ、渾身の力をこめて棒を振り下ろしたのです。すると、オーケストラから凄まじい迫力と輝きを持った音が放射され、ホール全体に響き渡りました。その時、私は体中に電気が走ったかのように感じ、震えるばかりに感動したのをよく覚えています。

それは亡くなる前年のカラヤンでしたが、どんなに体が弱っても、指揮者としてのエネルギーはやはり圧倒的でした。私の中ではその後、あの時のカラヤン以上に密度の濃いエネルギーを発散させる指揮者には出会ったことがありません。

藤山寛美


松竹新喜劇 藤山寛美 DVD-BOX 十八番箱 (おはこ箱) 

新橋演舞場。実は最初私はあまり気乗りしませんでした。当時中学生の生意気盛りで「喜劇」というものをどこから斜に構えて見るところがあったのかもしれません。母に半ば強引に連れて行かれて渋々付いて行った、というのが正直なところです。しかしいざ舞台が始まってみると、すぐに自分の浅はかさが分かりました。いやあ面白いの何の!!特に寛美と小島慶四郎のアドリブ(だったと思います)の掛け合いは、腹がよじれるほど笑いました。観客の全員が「また何か面白いことをやってくれるだろう」という期待に満ちた視線を寛美に送り、寛美もそれにことごとく応える、そうして劇場内のボルテージはどんどん上がっていく…。演劇の持つ魅力を初めて実感できた経験でした。この公演ですっかり藤山寛美の虜になった私は母に頼んでその公演期間中にもう一度同じ舞台を見させてもらいました。またそれだけでは飽きたらず、藤山寛美の公演ビデオセットも買ってもらってそれを何度も家で見ました。
この時の経験がきっかけで私は舞台の魅力にはまっていきました。

6代目中村歌右衛門

歌舞伎座。戦後の歌舞伎界における女形の最高峰と呼ばれた6代目中村歌右衛門を観た時は衝撃的でした。演目は失念してしまいましたが、歌右衛門は町娘を演じました。最初に歌右衛門が舞台に登場した時は、失礼ながらヨボヨボのお爺さんにしか見えなくて、町娘と言うよりは妖怪(ごめんなさい!)…。「これを町娘と思うのは無理があるなあ」なんて生意気なことを思っていましたが、芝居が進むにつれて、最初にそんな風に思ったことはすっかり忘れてしまい、どこからどう見ても若い娘にしか見えなくなりました。それどころか最後
は本気で「可愛いなあ」なんて思ったものです!
それは、往年の名画を観る時に初めは「うわあ、白黒かあ。年代を感じるなあ」と思ったにしても、いつの間にか作品に引き込まれ、自分の中ではフルカラーに見えてくるような感覚に近いかもしれません。

私がこの3人の実演に触れることができたのは、やはり親がそういう環境を用意してくれたからです。そのことには心から感謝しています。

今日の動画

藤山寛美「色気噺お伊勢帰り」

トーマス・ヤング

 

今日はイギリスの物理学者トーマス・ヤングの239回目の誕生日\(^o^)/

ヤングは光の干渉実験(ヤングの実験)で高校生にも馴染みの深い(?)人だと思いますが、とても多才な人だったようです。

まず、もともとはお医者さんです。
それが医学において乱視や色の知覚などを研究しているうちにま光学の研究に向かい、光の干渉実験(ヤングの実験)を通して「光は波である」と主張するなど、物理学者としての道を歩き始めます。また、弾性体力学の基本定数(ヤング率)に名前を残していますし、実は「エネルギー」という言葉を最初に使ってその概念を導入した人でもあります。さらには音楽の世界で鍵盤楽器の調律法の一つであるヤング音律を考案。これは不協和音が少ない調律法として今でも高く評価されています。

私はこういう多才な人が好きです♪(^_-)-☆

ヤングの実験(高校生向け)

ヤングの実験はセンター試験の最頻出問題でもあります。
もちろん、基本は波の干渉条件(光路差が波長の整数倍の時に強め合う)ですが、理解のポイントは近似です。
スリットとの間隔(d)と縞模様の間隔(x)がスリットとスクリーンの距離(l)に比べて十分小さいとして、S1PとS2Pが平行であると近似し、sinθ≒tanθと近似することで、光路差を

と考えるわけですが、このことはxが十分小さい時の近似である、

を使って、三平方の定理から

とすることと、同程度の近似なのだということに注意しましょう。

以上、業務連絡でした(∩_∩)



永野数学塾-東大卒講師の個別指導-神奈川県大和市中央林間

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